失われた10年といわれた1990年代,特に後半では企業の設備維持管理費の見直しが徹底的に行われた。これらの動きに関連して,設備維持管理費における腐食コストはどうあるべきかについても議論が深まり,リスク評価を取り入れた管理手法が導入されつつある。
はじめに
表1に見られるように,2003~2005年にかけて国内各地で大規模な産業事故が頻発したことは記憶に新しい。これに危機感を抱いた経産省はじめ産業界では,産業事故対応会議を設けて,産業事故に関する調査を行い,平成15(2003)年12月に「中間取りまとめ」*1を発表した。中間取りまとめでは,(1)経営トップの役割の重要性,(2)人的要因に対する対策,(3)設備・備品のリスク管理,(4)事故情報の共有等,などを挙げて対策を促した。引き続いて平成16(2004)年12月に「中間取りまとめ」のフォローアップ調査結果*2が公表されて,産業各分野で「中間取りまとめ」の各項目に対して迅速な対応がなされ,技術伝承,教育の充実,業界での事故情報の共有化や,リスク管理手法の導入などが図れている現状がまとめられている。また90年代の設備投資の停滞などによって,我が国の製造設備年齢が老齢化していることも指摘されたが,2005年度になって,ようやく設備年齢の若返りの傾向*3が出てきている。
表1 最近の産業事故事例
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しかしながら,シンドラー社のエレベータ事故に伴う維持管理や点検ミス問題,パロマをはじめとするガス給湯器による死亡事故,不二家にみられる食品管理の杜撰さ,電力業界での事故情報隠しなど,安全・安心に対する事業者の認識が十分でなかった事例が多く報道されている。近年における安全・安心に対する社会的関心の高まりに対する事業者の認識の欠如が問われているといえよう。
1. 腐食事例に学ぶ重要性
多発する産業事故であるが,詳細をみてみると,同じ過ちが繰り返されている感がある。腐食防食分野では,腐食事故の25%は既存の知識の活用で防ぐことが出来ると1971年のイギリスの腐食コストを推定したHoar報告*4は指摘し,腐食防食の知識の啓蒙の重要性を訴えた。過去の腐食事例に学ぶことの重要性は指摘するまでもない。
「中間取りまとめ」*1で指摘された事故情報の共有化については,「事例に学ぶ」ための必須条件であるため,各産業分野で事故情報のデータベース化が進み,データベースへアクセスもインターネットの発展に伴って比較的容易に出来るようになってきた。表2には,産業事故情報や製造物責任(PL)情報へアクセスするいくつかのサイトのアドレスを示した。
表2 産業事故やPL情報の入手出来るサイト例
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表2の冒頭の「失敗知識データベース」は,失敗学の提唱者である畑村洋太郎教授の統括によるユニークなデータベースである。多くの企業や分野で蓄積されているデータベースが有効に活用されていないのは,失敗事例の伝達がうまくいっていないからであると指摘し,これを解決するために必要な失敗知識の構造化手法を取り入れて作成されたデータベースがこの「失敗知識データベース」であって,極めて示唆に富んだ内容となっている。
失敗事例が2007年3月時点で1136件登録されていて,カテゴリー別の検索に「腐食」を入れると,56項目982件が検索され,その中で「腐食」が113件(11.5%)と第1位(図1)である。キーワード及びカテゴリー検索に「腐食」が使われた順位は,それぞれ11位と12位であるが,失敗事例に関与する要因として「腐食」が重要であることが示されている。
図1 失敗事例にみるキーワード「腐食」の重要度(上位20項目のみ示す) |
ところで,高圧ガス保安協会のサイトで高圧ガス保安法関係の事故件数の推移をみてみると,平成12年度(2000年)以降の増加が著しい。特に消費中の事件数が増えていることがみられる。事故が増えたことも一因であるが,安全・安心への関心の高まりと事故情報の公開の原則が認識されてきたことの結果のように見受けられる。同じサイトにLPガス関係の事故統計も公開されていて,この分野については事故件数の近年の減少傾向は著しく,死亡事故に至る事例は年間数件にまで減少している。しかしながら配管の腐食事例が事故の原因として依然として残された課題となっている。
2. 腐食コスト調査
失われた10年といわれた1990年代,特に後半では企業の設備維持管理費の見直しが徹底的に行われた。これらの動きに関連して,設備維持管理費における腐食コストはどうあるべきかについても議論が深まり,リスク評価を取り入れた管理手法が導入されつつある。
これに先立って,腐食防食分野では高度成長時代の終焉と定常化しつつある低成長時代に対応した「我が国における腐食コストの推定」*5が行われた。この調査においても設備維持管理のあり方についての新たな対応の必要性が指摘された。
一方では,「安全と安心」が時代のキーワードとなり,工場事故や製品欠陥などによって企業に対する信頼感が失われると,その回復は容易でなく,企業の存亡にも関わることが認識されるようになった。環境の世紀ともいわれる21世紀に入り, 京都議定書の発効も確実になって,省エネルギーや省資源の観点から,3R(Recycle,Reduce,Reuse)の一翼として,社会インフラや住宅の長寿命化,あるいは機器装置の寿命延長や寿命予測などに関心が高まってきている。我が国の原子力発電所は,今後順次運転期間が30年を迎える時代に入り,寿命延長や経年化対策が重要な課題となってきている。
3. 腐食コストの23年間の変化*5
1970~80年代に世界各国で腐食コストの推定が行われ,国民総生産(GNP)の1~4%に及ぶ巨額の経済的損失が腐食によって生じることが明らかにされた。日本では1974年に直接的腐食コストの推定がなされ,約2.6兆円の経済的損失と見積もられた。当時の日本経済は高度経済成長期の末期にあたり,それでも経済成長率は3~4%の時代であった。産業構造も2次産業中心であって,産業事故も多発していた。1990年代に入ると成長率は鈍化し,失われた10年の1990年代後半にはマイナスの経済成長率さえ示し,3次産業の占める比率が大きくなる産業構造の変化がみられるようになってきた。
このような産業構造の変化や環境の世紀に対応した技術課題を抽出することを目的として,1997年に再び「我が国の腐食コスト」の調査が行われた。米国でも同様な問題意識から相前後して腐食コストの推定*6がなされた。結果の要約を表3に示した。日本の場合,直接的腐食コストを示すUhlig方式による腐食コスト推定値は,我が国の経済規模の拡大とともに絶対額は増大したが,対GNP比は1.72%から0.77%,(対GDP〈国内総生産〉比で0.83%)へと若干低下している。一方,米国の腐食コストは,Uhlig方式による推定値は$121Bドル,対GDP比で1.38%と推定されている。全(直接+間接)腐食コストは,$276Bドル,対GDP比3.14%である。
表3 腐食コストの比較
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日本の場合には正確な全腐食コストは推定されていないが,米国の場合を参考にしてGDPの3%とすると,約15兆円と推定される。いずれにしても腐食コストは国民経済上巨大な経済的コストであって,この損失の低減は国民的課題である。
4. 中国及びインドの腐食コスト
最近中国*7及びインド*8でも腐食コスト推定が行われた。腐食コスト推定には,各産業分野についての統計が収集されて整理されていることが必要であるが,両国とも統計が十分に整備されていないため,腐食コスト推定は必ずしも容易ではない事情にある。
インドの場合には,インドの産業連関表と米国の調査で用いられた腐食関係係数(NBSBCL係数)を用いて,1950~1990年の各年についての平均腐食コストを推定した。その結果,平均直接腐食コスト,平均間接腐食コスト,及び平均全腐食コストは,それぞれGDPの2.30%,3.65%,5.05%と推定された。2003年度のインドのGDPは5990億ドルであるので,全腐食コストは,その5%の約300億ドル程度と推定される。
中国では,Uhlig方式とHoar方式によって調査された。その結果を表4及び表5に示した。
表4,5から明らかなように,中国の腐食コストは,防食対策から推定するUhlig方式による推定値は,2008億元でGNPの5.07%であり,産業分野から推定するHoar方式では
2288億元で,GNPの5.78%であった。全腐食コストは5000億元と推定され,GNPの5%と推定されている。
表4 Uhlig方式による調査結果:中国(2000年)
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表5 Hoar方式による調査結果:中国(2000年)
注)確実なデータがないため,冶金,造船,海洋石油,軽工業,海洋運送,核,航空,兵器,電子などの分野のデータを含まない。 |
2002年度のインド及び中国のGDPは,それぞれ5990億ドルと1兆4099億ドルであって,日本のGDP(4兆3264億ドル)と比べると,インドは13.8%であり,中国は32.6%である。日本の経験から推定すると,腐食コストはGDPの成長に伴って増大するが,経済構造の変化に伴って,GDPに対する腐食コストの比率は低下するものと予想される。
5. 腐食事故事例調査
腐食コストは国民経済の拡大とともに巨額となっているが,腐食事故事例の内容はどのように変化しているかを見てみる。図2*9は,1955~1976年の間にみられた,ある化学工場の腐食事例の腐食形態別の比率である。多い事例は,応力腐食割れ(40%),局部腐食(19%),全面腐食(15%),である。
図2 化学プラントの腐食事例比率(1976)*9 |
図3*10は2004年にまとめられた化学プラントの腐食事例の腐食形態別の比率である。この場合には上位から,応力腐食割れ(21%+粒界割れ4%),全面腐食(19%),その他の腐食(15%),局部腐食(孔食3%+すき間腐食4%+微生物腐食2%),となっていて,応力腐食割れの占める比率は依然として大きい。他の事例報告の例でも,ほぼ同様に応力腐食割れ,特にステンレス鋼の応力腐食割れの事例は依然として多く発生し,全事例の約3割を占めている重大な事例である。ステンレス鋼が多用される原子力発電所でも応力腐食割れは,最も対応の難しい腐食形態である。
図3 化学プラントの腐食事例比率(2004)*10 |
おわりに
高度成長時代においては,重化学工業を中心とした産業事故あるい腐食事故が多発し,これらへの対応が中心課題であったが,最近は電子部品腐食などのミクロな腐食が話題になることが多い。また微生物腐食への関心も高まってきている。しかしながら,美浜原子力発電所の高温高圧水中の炭素鋼減肉事故など古典的な腐食事例についても,事故の影響の大きさから改めて関心が寄せられている。
〈参考文献〉
*1 経済産業省,“産業事故調査結果の中間取りまとめ”,平成15年12月(2003)
http://www.meti.go.jp/report/downloadfiles/g40220b20j.pdf
*2 経済産業省,“産業事故に関するアンケート調査結果について”,平成16年12月(2004)
http://www.jfcc.or.jp/27_bbs/pdf/04sangyojiko.pdf
*3 日本経済新聞,朝刊,「企業設備は若返りの兆し」2005年11月20日
*4 Department of Trade and Industry,(T.P.Hoar), Report of the Committee on Corrosion and Protection, Her Magesty’s Stationary Office,(1971)
*5 腐食防食協会,“我が国の腐食コスト”,材料と環境,50,490-512,(2001)
*6 NACE International-Cost of Corrosion Study, 2007
http://www.nace.org/nace/content/publicaffairs/cocorrindex.asp (NACE)
*7 Ke Wei, Corrosion and Protection, 25, 1, 2004.“中国腐食コスト調査報告書”,化学工業出版社,2003年10月,北京
*8 R. Bhaskaran, N. Palaniswamy, N. S. Rengaswamy,S . Rasjesh Kumar,M.Raghanvanand M.,Jayachandran, Paintindia ANNUAL 187, 2002.
*9 大久保勝夫,第23回腐食防食討論会予稿集,特3,p.133,(1976)
*10 村上晃一,“失敗知識データベース整備事業”,化学工学会委員会,科学技術振興機構,(2004)